インターネットでいとも簡単に人の暮らしの営みが垣間見られるようになったこの頃。
ピカピカに磨かれたキッチン、毎日作られる色とりどりのお弁当、おしゃれで隙のないファッション…
よそ様の写真を見ながら、自分の暮らしとの乖離にため息…そんな人も多いんじゃないかと思います。
かくいう私も、「整頓」「丁寧」「もの選び」「シンプル」などが踊る本を図書館で借りては読み漁り、自分の暮らしに反映させるのが好きです。
というか好きは好きなんだけど、最近がなんだかこういうハウツー本、誰かの暮らしを垣間見るような本や写真を見るとちょっと気分が落ちる。
なぜって、自分の暮らしがそこまで完璧にできていないから。
だいたいそういう本の著者は自分のことを「ずぼらでおおざっぱ」というけど、本当のおおざっぱってスゴイんだぞ、とちょっと意地悪い気持ちにもなったりして。
段取りや整頓の参考にはなっているものの、きっと自分なりのやり方を確立して暮らしを紡いでいる人がうらやましいんだと思います。
自分と比較するときって、たいていは他人を嫉んでいるとき。
それに気が付いて落ち込むわけです。
そんな本ばっかり読んでいるから自分に課した「やるべきこと」がとてもそれはもう多くて、ごはんを三食つくって家の掃除して庭の草取りして娘の昼寝で寝かしつけてリースつくって…。
しかもそれをいかに丁寧に確実にやり切るか。このハードルを誰かの生活のラインと比較して設定しているわけです。
そんなことをしていたら、子どもたちが帰ってくる夕方に動機が激しくなり、あまり人の多いところに行くのも億劫になって、お酒が進むようになりました。…いかんやつです。
自分の大切にしたことって何だろう?
そんな自分に直面して、最近よく考えることです。
ありきたりだけど、自分の寿命が決まったときにやっておきたいことって?と自分に問いかけるわけです。
そうなるとやっぱり大切なのは家族なのです。
近いうち命がなくなるときに、お風呂場にカビがないか、とか、網戸が汚れてないか、とか、そういうことは二の次になるわけで。例えが大袈裟ではありますが、、。
あ、決して汚い家でも仕方がない、という話ではまったくないです。できる限りは綺麗に整えたいし、すっきりとした暮らしを目指したい。
でも、そこに「執着をしない」ということです。
「本を読んでー!」とせがむ娘に「ここだけ掃除させてよ」と”今”の彼女のお願いをなかったことにしている自分。
順序が違うよなぁと思ったのです。わたしが落ち込む原因の罪悪感や劣等感の根源はここかもしれない、と。
やることばかりに心を捉われて家中をうろうろするのをやめて、娘を膝にのせて絵本を読むことにしました。
食に関してもこの頃はそう思います。
こだわりたい、でも執着はしない。
三食ひたすらすべてを手作りするのはしんどい。
ときには買ってきたものをアレンジして、インスタントも利用して。
それでいいんだと思います。完璧にやるのはやっぱり苦しい。
そうやって少しずつ自分を許して開放しながら、苦しんでいる誰かと「そんなことどうでもいいよねー!」と言い合えたりできるといいです。
今日は子どもたちとモンシロチョウの羽化を生まれて初めて見届けました。
キアゲハの羽化は数えきれないほど体験している長男も感動した様子。
こういう暮らしの感動が我が家の醍醐味だ!と子どもたちとなんでもない時間をゆるりと過ごしたのでした。
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